十時頃になると

 忠太は、棚の上の荷物を氣にして、時々其を見上げ見上げしながら、物珍し相に乘合の人々を、しげしげと見比べてゐたが、一時間許り經《た》つと少し身體を屈めて、『尻《けつ》ア痛くなつて來た。』と呟やいた。『汝《うな》ア痛くねえが?』『痛くねえす。』とお定は囁いたが、それでも忠太がまだ何か話欲しさうに屈《かゞ》んでるので、『家《え》の方でヤ玉菜だの何ア大きくなつたべなす。』『大きくなつたどもせえ。』と言つた忠太の聲が大きかつたので、周圍《あたり》の人は皆此方を見る。『汝《うな》ア共ア逃げでがら、まだ二十日にも成んめえな。』 お定は顏を赤くしてチラと周圍を見たが、その儘返事もせず俯《うつむ》いて了つた。お八重は顏を蹙《しか》めて、忌々し氣に忠太を横目で見てゐた。

 十時頃になると、車中の人は大抵こくり/\と居睡《ゐねむり》を始めた。忠太は思ふ樣腹を前に出して、グッと背後《うしろ》に凭《もた》れながら、口を開けて、時々鼾《いびき》をかいてゐる。お八重は身體を捻つて背中合せに腰掛けた商人體の若い男と、頭を押|接《つ》けた儘、眠つたのか眠らぬのか、凝《ぢつ》としてゐる。 窓の外は、機關車に惡い石炭を焚くので、雨の樣な火の子が横樣に、暗を縫うて後ろに飛ぶ。懷手をして圓い頤《あご》を襟に埋めて俯いてゐるお定は、郷里を逃げ出して以來の事を、それからそれと胸に數へてゐた。お定の胸に刻みつけられた東京は、源助の家と、本郷館の前の人波と、八百屋の店と、へ[#「へ」に傍点]の字口の鼻先が下向いた奧樣とである。この四つが、目眩《めまぐ》ろしい火光《あかり》と轟々たる物音に、遠くから包まれて、ハッと明るい。お定が一生の間、東京といふ言葉を聞く毎に、一人胸の中に思出す景色は、恐らく此四つに過ぎぬであらう。 軈てお定は、懷手した左の指を少し許り襟から現して、柔かい己が頬を密《そつ》と撫《な》でて見た。小野の家で着て寢た蒲團の、天鵞絨の襟を思出したので。 瞬く間、窓の外が明るくなつたと思ふと、汽車は、とある森の中の小さい驛を通過《パツス》した。お定は此時、丑之助の右の耳朶《みゝたぶ》の、大きい黒子《ほくろ》を思出したのである。

 新太郎と共に、三人を上野まで送つて呉れたお吉は、さぞ今頃、此間中は詰らぬ物入《ものいり》をしたと、寢物語に源助にこぼしてゐる事であらう。

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