晩酌に陶然とした忠太

 其夜は、裏二階の六疊に忠太とお八重お定の三人枕を並べて寢せられたが、三人|限《きり》になると、お八重は直ぐ忠太の膝をつねりながら、『何しや來たす此人《このふと》ア。』と言つて、執念《しつこ》くも自分等の新運命を頓挫させた罪を詰《なぢ》るのであつたが、晩酌に陶然とした忠太は、間もなく高い鼾をかいて、太平の眠に入つて了つた。するとお八重は、お定の温しくしてるのを捉へて、自分の行つた横山樣が、何とかいふ學校の先生をして、四十圓も月給をとる學士樣な事や、其奧樣の着てゐた衣服の事、自分を大層可愛がつてくれた事、それからそれと仰々しく述べ立てて、今度は仕方がないから歸るけれど、必ず又自分だけは東京に來ると語つた。そしてお八重は、其奧樣のお好みで結はせられたと言つて、生れて初めての庇髮に結つてゐて、奧樣から拜領の、少し油染みた焦橄欖《こげおりいぶ》のリボンを大事相に挿《さ》してゐた。 お八重は又自分を迎ひに來て呉れた時の新太郎の事を語つて、『那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57]《あんな》親切な人ア家《え》の方にや無《ね》えす。』と讃めた。 お定はお八重の言ふが儘に、唯温しく返事をしてゐた。 その後二三日は、新太郎の案内で、忠太の東京見物に費された。お八重お定の二人も、もう仲々來られぬだらうから、よく見て行けと言ふので、毎日其お伴をした。 二人は又、お吉に伴れられて行つて、本郷館で些少な土産物をも買ひ整へた。

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 お八重お定の二人が、郷里を出て十二日目の夕、忠太に伴れられて、上野のステイションから歸郷の途に就いた。 貫通車の三等室、東京以北の總有《あらゆる》國々の訛《なまり》を語る人々を、ぎつしりと詰めた中に、二人は相並んで、布袋の樣な腹をした忠太と向合つてゐた。長い/\プラットフォームに數限りなき掲燈《あかり》が晝の如く輝き初めた時、三人を乘せた列車が緩《ゆる》やかに動き出して、秋の夜の暗を北に一路、刻一刻東京を遠ざかつて行く。 お八重はいふ迄もなく、お定さへも此時は妙に淋しく名殘惜しくなつて、密々《こそ/\》と其事を語り合つてゐた。此日は二人共庇髮に結つてゐたが、お定の頭にはリボンが無かつた。

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