奧樣が起きて來る氣色がした

[#6字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

 目が覺めると、障子が既に白んで、枕邊の洋燈は昨晩の儘に點いてはゐるけれど、光が鈍く※[#「虫+慈」、U+45F9、196-上-20]々《じゝ》と幽かな音を立ててゐる。寢過しはしないかと狼狽《うろた》へて、すぐ寢床から飛起きたが、誰も起きた樣子がない。で、昨日まで着てゐた衣服《きもの》は手早く疊んで、萠黄の風呂敷包から、荒い縞の普通着《ふだんぎ》(郷里《くに》では無論普通に着なかつたが)を出して着換へた。帶も紫がかつた繻子ののは疊んで、幅狹い唐縮緬を締めた。 奧樣が起きて來る氣色がしたので、大急ぎに蒲團を[#「蒲團を」は底本では「薄團を」]押入に入れ、劃《しきり》の障子をあけると、『早いね。』と奧樣が聲をかけた。お定は臺所の板の間に膝をついてお叩頭《じぎ》をした。 それからお定は吩咐《いひつけ》に隨つて、焜爐《こんろ》に炭を入れて、石油を注いで火をおこしたり、縁側の雨戸を繰つたりしたが、『まだ水を汲んでないぢやないか。』と言はれて、臺所中見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したけれども、手桶らしいものが無い。すると奧樣は、『それ其處にバケツがあるよ。それ、それ、何處を見てるだらう、此人は。』と言つて、三和土《たゝき》になつた流場の隅を指した。お定は、指された物を自分で指して、叱られたと思つたから顏を赤くしながら、『これでごあんすか?』と奧樣の顏を見た。バケツといふ物は見た事がないので。『然うとも。それがバケツでなくて何ですよ。』と稍御機嫌が惡い。

— posted by id at 09:40 pm  

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