お定は其處に膝をついて

 お定は其處に膝をついて、開けた襖に[#「襖に」は底本では「襖を」]片手をかけた儘一時間許りも身動きをしなかつた。先づ明日の朝自分の爲《せ》ねばならぬ事を胸に數へたが、お八重さんが今頃|怎《どう》してる事かと、友の身が思はれる。郷里《くに》を出て以來、片時も離れなかつた友と別れて、源助にもお吉にも離れて、ああ、自分は今初めて一人になつたと思ふと、温なしい娘心はもう涙ぐまれる。東京の女中! 郷里《くに》で考へた時は何ともいへぬ華やかな樂しいものであつたに、……然《さ》ういへば自分はまだ手紙も一本郷里へ出さぬ。と思ふと、兩親の顏や弟共の聲、馬の事、友達の事、草苅の事、水汲の事、生れ故郷が詳らかに思出されて、お定は凝《ぢつ》と涙の目を押瞑《おしつむ》つた儘、『阿母《あツぱあ》、許してけろ。』と胸の中で繰返した。 左《さ》う右《か》うしてるうちにも、神經が鋭くなつて、壁の彼方から聞える主人夫婦の聲に、若しや自分の事を言やせぬかと氣をつけてゐたが、時計が十時を打つと、皆寢て了つた樣だ。お定は若しも明朝寢坊をしてはと、漸々《やう/\》涙を拭つて蒲團を取出した。 三分心の置洋燈を細めて、枕に就くと、氣が少し暢然《ゆつたり》した。お八重さんももう寢たらうかと、又しても友の上を思出して、手を伸べて掛蒲團を引張ると、何となくフワリとして綿が柔かい。郷里で着て寢たのは、板の樣に薄く堅い、荒い木綿の飛白《かすり》の皮をかけたのであつたが、これは又源助の家で着たのよりも柔かい。そして、前にゐた幾人の女中の汗やら髮の膩《あぶら》やらが浸みてるけれども、お定には初めての、黒い天鵞絨の襟がかけてあつた。お定は不圖、丑之助がよく自分の頬片《ほつぺた》を天鵞絨の樣だと言つた事を思出した。 また降り出したと見えて、蕭かな雨の音が枕に傳はつて來た。お定は暫時《しばらく》恍乎《ぼんやり》として、自分の頬を天鵞絨の襟に擦つて見てゐたが、幽かな微笑を口元に漂はせた儘で、何時しか安らかな眠に入つて了つた。

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