奧樣は、眞白な左の腕を見せて

 さて、奧樣は、眞白な左の腕を見せて、長火鉢の縁《ふち》に臂《ひぢ》を突き乍ら、お定のために明日からの日課となるべき事を細々と説くのであつた。何處の戸を一番先に開けて、何處の室の掃除は朝飯過で可いか。來客のある時の取次の仕方から、下駄靴の揃へ樣、御用聞に來る小僧等への應對の仕方まで、艶のない聲に諄々と喋り續けるのであるが、お定には僅かに要領だけ聞きとれたに過ぎぬ。 其處へ旦那樣がお歸りになると、奧樣は座を讓つて、反對の側の、先刻まで源助の坐つた座蒲團に移つたが、『貴郎《あなた》、今日は大層遲かつたぢやございませんか?』『ああ、今日は重役の鈴木ン許《とこ》に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたもんだからな。(と言つてお定の顏を見てゐたが、)これか、今度の女中は?』『ええ、先刻菊坂の理髮店《とこや》だつてのが伴れて來ましたの。(お定を向いて)此方が旦那樣だから御挨拶しな』『ハ。』と口の中で答へたお定は、先刻からもう其挨拶に困つて了つて、肩をすぼめて切ない思ひをしてゐたので、恁《か》ういはれると忽ち火の樣に赤くなつた。『何卒《どうか》ハ、お頼申《たのまを》します。』と、聞えぬ程に言つて、兩手を突く。旦那樣は、三十の上を二つ三つ越した髭の嚴しい立派な人であつた。『名前は?』といふを冒頭《はじめ》に、年も訊かれた、郷里も訊かれた、兩親のあるか無いかも訊かれた。學校へ上つたか怎《どう》かも訊かれた。お定は言葉に窮《こま》つて了つて、一言言はれる毎に穴あらば入りたくなる。足が耐へられぬ程|痲痺《しび》れて來た。 稍あつてから、『今晩は何もしなくても可《い》いから、先刻《さつき》教へたアノ洋燈《ランプ》をつけて、四疊に行つてお寢《やす》み。蒲團は其處の押入に入つてある筈だし、それから、まだ慣れぬうちは夜中に目をさまして便所にでもゆく時、戸惑ひしては不可《いけない》から、洋燈は細めて危なくない所に置いたら可いだらう。』と言ふ許可《ゆるし》が出て、奧樣から燐寸《マツチ》を渡された時、お定は甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57]《どんな》に嬉しかつたか知れぬ。 言はれた通りに四疊へ行くと、お定は先づ兩脚を延ばして、膝頭を輕く拳《こぶし》で叩いて見た。一方に障子二枚の明りとり、晝はさぞ暗い事であらう。窓と反對の、奧の方の押入を開けると、蒲團もあれば枕もある。妙な臭氣が鼻を打つた。

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