途中で機關車に故障があつた

 途中で機關車に故障があつた爲、三人を乘せた汽車が[#「汽車が」は底本では「汽軍が」]上野に着いた時は、其日の夜の七時過であつた。長い長いプラットホォーム、潮の樣な人、お八重もお定も唯小さくなつて源助の兩袂に縋つた儘、漸々《やう/\》の思で改札口から吐出されると、何百輛とも數知れず列んだ腕車、廣場の彼方は晝を欺く滿街の燈火、お定はもう之だけで氣を失ふ位おッ魂消《たまげ》て了つた。 腕車《くるま》が三輛、源助にお定にお八重といふ順で驅け出した。お定は生れて初めて腕車に乘つた。まだ見た事のない夢を見てゐる樣な心地で、東京もなければ村もない、自分といふものも何處へ行つたやら、在るものは前の腕車に源助の後姿許り。唯|※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81]乎《ぼんやり》として了つて、別に街々の賑ひを仔細に見るでもなかつた。燦爛たる火光《あかり》、千萬の物音を合せた樣な轟々たる都の響、其火光がお定を溶かして了ひさうだ。其響がお定を押潰して了ひさうだ。お定は唯もう膝の上に載せた萠黄の風呂敷包を、生命よりも大事に抱いて、胸の動悸を聽いてゐた。四邊《あたり》を數限りなき美しい人立派な人が通る樣だ。高い高い家もあつた樣た。 少し暗い所へ來て、ホッと息を吐いた時は、腕車が恰度《ちやうど》本郷四丁目から左に曲つて、菊坂町に入つた所であつた。お定は一寸振返つてお八重を見た。 軈て腕車が止つて、『山田理髮店』と看板を出した明るい家の前。源助に促されて硝子戸の中に入ると、目が眩む程明るくて、壁に列んだ幾面の大鏡、洋燈《ランプ》が幾つも幾つもあつて、白い物を着た職人が幾人も幾人もゐる。何《ど》れが實際の人で何れが鏡の中の人なやら、見分もつかぬうちに、また源助に促されて、其店の片隅から疊を布いた所に上つた。 上つたは可《い》いが、何處に坐れば可いのか一寸|周章《あわて》て了つて、二人は暫し其所に立つてゐた。源助は、『東京は流石に暑い。腕車《くるま》の上で汗が出たから喃。』と言つて突然《いきなり》羽織を脱いで投げようとすると、三十六七の小作《こづく》りな内儀《おかみ》さんらしい人がそれを受取つた。『怎《どう》だ、俺の留守中何も變りはなかつたかえ?』

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