翌朝

『餘計な事ア無《ね》えせア。もつと有るものせえ。』 お定は、平常《いつも》ならば恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57]《こんな》事を餘り快く思はぬのだが、常々添寢した男から東京行の錢別を貰つたと思ふと、何となく嬉しい。お八重には恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57]事が無からうなどゝ考へた。 先刻《さつき》の蟋蟀《こほろぎ》が、まだ何處か室の隅ツこに居て、時々思出した樣に、哀れな音を立てゝゐた。此夜お定は、怎《どう》しても男を抱擁めた手を弛《ゆる》めず、夜明近い鷄の頻りに啼立てるまで、厩の馬の鬣を振ふ音や、ゴトゴト破目板を蹴る音を聞きながら、これといふ話もなかつたけれど、丑之助を歸してやらなかつた。

[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]

 其翌朝は、グツスリ寢込んでゐる所をお八重に起されて、眠い眼を擦《こす》り/\、麥八分の冷飯に水を打懸けて、形許り飯を濟まし、起きたばかりの父母や弟に簡單な挨拶をして、村端れ近い權作の家の前へ來ると、方々から一人二人水汲の女共が、何れも眠相な眼をして出て來た。荷馬車はもう準備が出來てゐて、權作は嚊に何やら口小言を言ひながら、脚の太い黒馬《あを》を曳き出して來て馬車に繋いでゐた。『何處へ』と問ふ水汲共には『盛岡へ』と答へた。二人は荷馬車に布いた茣蓙の上に、後向になつて行儀よく坐つた。傍には風呂敷包。馬車の上で髮を結つて行くといふので、お八重は別に櫛やら油やら懷中鏡やらの小さい包みを持つて來た。二人共木綿物ではあるが、新しい八丈|擬《まが》ひの縞の袷を着てゐた。 軈て權作は、ピシャリと黒馬《あを》の尻を叩いて、『ハイハイ』と言ひながら、自分も場車に飛乘つた。馬は白い息を吐きながら、南を向けて歩き出した。

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