一層強く男の胸に顏を埋めた

『嘘でねえでヤ。俺ア眞實《ほんと》に、汝《うな》アせえ承知して呉《け》えれば、夫婦《いつしよ》になりてえど思つてるのに。』『嘘だ!』とお定はまた繰返して、一層強く男の胸に顏を埋めた。 暫しは女の歔欷《すゝりな》く聲のみ聞えてゐたが、丑之助は、其漸く間斷々々《とぎれ/\》になるのを待つて、『汝《うな》ア頬片《ほつぺた》、何時來ても天鵞絨《びろうど》みてえだな。十四五の娘子《めらしこ》と寢る樣だ。』と言つた。これは此若者が、殆んど來る毎にお定に言つてゆく讃辭《ことば》なので。『十四五の娘子供《めらしやど》ども寢でるだべせア。』とお定は鼻をつまらせ乍ら言つた。男は、女の機嫌の稍直つたのを見て、『嘘だあでヤ。俺ア、酒でも飮んだ時ア他《ほか》の女子さも行《え》ぐども、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57]《そんな》に浮氣ばしてねえでヤ。』 お定は胸の中で、此丑之助にだけは東京行の話をしても可からうと思つて見たが、それではお八重に濟まぬ。といつて、此儘何も言はずに別れるのも殘惜しい。さて怎《どう》したものだらうと頻りに先刻《さつき》から考へてゐるのだが、これぞといふ決斷もつかぬ。『丑さん。』稍あつてから囁いた。『何しや?』『俺ア明日《あした》……』『明日? 明日の晩も來るせえ。』『そでねえだ。』『だら何しや?』

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